霊山歴史館
トップページへ ご利用案内 霊山歴史観について 展覧会・行事 刊行物・グッズ
 
 
 
  トップページ / 歴史館ニュース / NEWS-20130131-yaenozidaimidokoro
  2013年通年特別展「会津の武士道 第1期 八重の時代」見どころ
   新島八重の生涯会津から京都へ、幕末維新を力強く生き抜く
 
   現在開催中の2013年通年特別展「会津の武士道 第1期 八重の時代」は、連日多くの来場者でにぎわっていますが、なかでもNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(写真下)に注目があつまっています。新島八重の生涯を展覧会の見どころとともに紹介します。

【兄・山本覚馬から砲術を学ぶ】
 新島八重は、弘化2年(1845)、代々会津藩の砲術師範を務める山本家の三女として生まれました。幼いころから活発で、17歳年上の兄・山本覚馬から砲術を習いました。覚馬は、藩校「日新館」で学んだ後、江戸に遊学。佐久間象山から蘭学や洋式砲術を学びました。帰藩後は日新館の教授に就任、藩の近代化に努めました。八重は覚馬から大きな影響を受け、「ならぬことはならぬものです」など会津の武士道を身につけていきました。

【会津戦争で男装して籠城-幕末のジャンヌダルク】
 八重は20歳ごろに、覚馬の仲間・出石藩出身の川崎尚之助(日新館蘭学所教授)と結婚しました。
 文久2年(1862)、会津藩主・松平容保は、幕府からの強い要請によって京都守護職に就任。覚馬も容保の上洛に伴って京都に入り、会津藩砲兵隊を指揮しました。
 慶応4年(1868)の会津戦争で八重は、鳥羽伏見の戦いで負傷し江戸で亡くなった弟・三郎の衣装を着て男装し、鶴ヶ城籠城戦に参加しました。そして弟のかたき討ちをしようと、元込七連発のスペンサー銃で新政府軍と戦ったことから、後に「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれました。
 藩主・松平容保はじめ藩士の奮戦むなしく新政府軍の総攻撃で鶴ヶ城は蜂の巣のようになり(写真左)、籠城ひと月後の9月22日、降伏、開城しました。開城の日、八重は三の丸雑物庫の白壁に「明日の夜はいずくの誰かながむらん 馴れし御城に残す月影」と城を去る無念の心情をあらわした歌を残しました。川崎尚之助とは籠城戦のあと生き分かれとなりました。
                                

【新島襄と結婚-ハンサムウーマン】

 会津藩の降伏後、八重は米沢藩に赴き、出稼ぎなどで生計をたてていましたが、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕えられ、処刑されたと聞いていた兄・覚馬が京都で生きていることを知り、明治4年(1871)母・佐久らとともに京都へ移住しました。
 京都へやってきた八重は、覚馬の推薦で、京都府が開設した日本最初の公立女学校「新英学校及女紅場」に勤務し、後に権舎長兼教導試補を務めました。
 明治8年(1875)のちに京都府知事となる槇村正直の紹介で、アメリカ留学から帰った新島襄と婚約し、翌年京都初のキリスト教式結婚式をあげました。夫をアメリカ式に「ジョー」と呼びすてにし、気高く颯爽と振る舞う八重を新島襄は「ハンサムウーマン(聡明な女性)」と呼びました。
 新島襄は覚馬
とともに「同志社英学校」を設立。ついで「同志社分校女紅場」(同志社女学校)を設立しました。八重も礼法の教師としてともに教育に尽力しました。
 明治23年(1890)、新島襄は心臓病のために「グッドバイ、また会わん」と八重に言い残して他界。14年の結婚生活でした。

 【篤志看護婦として活躍-日本のナイチンゲール】
八重はその後、日本赤十字社正会員となり、日清・日露戦争のときには篤志看護婦として活躍。このことから「日本のナイチンゲール」とも呼ばれました。
 明治27年(1894)裏千家13代家元・圓能斎に茶道を習い、女流茶道家として社会活動を行い、女性の地位向上に尽くしました。
 昭和7年(1932)、幕末、明治、大正、昭和を力強く生き抜いた新島八重は88歳(数え年)で亡くなりました。葬儀は同志社大学葬として行われ、約4,000人が参列しました。墓は、京都市若王子山にある同志社墓地にあり、夫・新島襄、兄・覚馬とともに葬られています。
 本展覧会では、初公開を含む豊富な資料で新島八重の生涯を紹介します。その見どころの一部を紹介します。
ご来館のうえ、ぜひ実物をご覧ください。
 錦絵 会津軍記
 
会津戦争で、新政府軍の前に敗れ、慶応4年(明治元年、1868)9月22日、会津藩主・松平容保(絵の中央)は新政府軍の軍監・中村半次郎(桐野利秋)に降伏状を手渡しました。早川松山画。
 元込七連発スペンサー銃  【初公開】新島襄 鶏卵紙写真
 
新島八重は鶴ヶ城籠城戦で同型のスペンサー銃を手に新政府軍と戦いました。スペンサー銃はアメリカ製で南北戦争でリンカーン大統領によって採用され、北軍を勝利に導きました。日本にも輸入され、戊辰戦争では各地で使用されました。
鶏卵紙は、用紙と感光材の接着に卵白を用いたもので、江戸時代末期から明治時代にかけて使用されました。新島襄の鶏卵写真は、現存する唯一のもので、非常に貴重です。
 【初公開】女紅場之創始扁額            (京都府立鴨沂高校蔵)
 
この扁額は京都府第2代知事槇村正直の揮毫によるもので、文字の力強さと一間半の一枚板の大きさに圧倒される見事なもの。槇村の熱意を今に伝えています。八重は開校直後の女紅場に奉職し、新しい一歩を踏み出しました。   
 徳富蘇峰 写真と自筆原稿  【初公開】裏千家十三代圓能斎一行書
   
同志社の学生だった徳富蘇峰は八重のことを「鵺(ぬえ)のような女」(蘇峰自伝)と批判しましたが、八重は全く気に留めませんでした。二人は新島襄の没後に和解し、八重の墓碑銘は蘇峰が揮毫しました。 八重が師事した裏千家第13代家元・圓能斎宗室の一行詩。「有梅添月色 無竹吹秋声」
八重は、わずか8年で女流茶人の筆頭に近いとこまで上り詰め、茶道文化の普及と女子教育に尽力しました。茶名は「宋竹」を授かりました。
 
 
このホームページの著作権はすべて霊山歴史館に属します。
Copyright 2011, Ryozen Museum of History, Japan
お問合せ トップ頁へ サイトマップ 関連サイト