霊山歴史館
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      2014年秋冬特別展 京都養正社寄贈記念 
        龍馬、高杉、武市…「日本を変えた男たち」 見どころ
        龍馬直筆書状や高杉晋作所用鉄扇、武市自画像など
 
 2014年秋冬展覧会 京都養正社寄贈記念「日本を変えた男たち」は、坂本龍馬、高杉晋作などの資料を多数展示し、好評をいただいています。
 京都養正社は、木戸孝允らによって明治9年(1876)に設立された幕末維新の顕彰団体。志士の子孫らが会員となり、遺品や遺墨を保存、公開してきました。このほど解散にあたり、所蔵資料49点を霊山歴史館に寄贈いただいたもので、坂本龍馬直筆の書状、高杉晋作愛用品など幕末に活躍した志士たちの貴重な資料が含まれています。寄贈いただいた資料の見どころの一部を紹介します。
 秋が深まる京都。この機会にご来館のうえ、ぜひご覧ください。

【初公開】霊山招魂社社号 有栖川宮熾仁親王書      
 
  霊山招魂社(現、京都霊山護国神社)の社号扁額(右写真)のために、有栖川宮熾仁(たるひと)親王が揮毫した書。天皇家の書は有栖川流で、現在は秋篠宮がこの書流を研究されています。
 霊山招魂社は、国のために一身を捧げた幕末維新の志士を祀るために、明治元年(1968)、太政官布告第1号により設立されました。
 有栖川宮熾仁親王は、孝明天皇の妹・和宮との婚約がととのっていましたが、和宮が14代将軍・徳川家茂の御台所となるため婚約は解消されました。その後国事御用掛となり、親長州派として尊王攘夷運動を行いますが、禁門の変後に失脚。しかし王政復古で復権し、新政府の総裁となりました。戊辰戦争では東征大総督、西南戦争でも征討総督となり、明治天皇を支えました。明治10年、西郷隆盛につぐ2代目の陸軍大将に就任。明治28年(1895)薨去。行年61歳でした。
坂本龍馬書状       坂本龍馬献上写真   

 坂本龍馬が慶応3年(1867)9月27日付で土佐藩大目付・本山只三郎に宛てた書状。このとき龍馬はオランダのハットマン商会から購入したライフル銃を震天丸に積み込んで土佐藩に運搬し、1000挺の購入をもちかけていました。龍馬は、同盟を結んだ薩長が京都に兵を送ったことや、土佐藩の藩論を武力討幕か大政奉還に統一することなども訴えていました。書状は、早く土佐藩が決定することを促したもの。龍馬はこの折、5年ぶりに実家を訪れ、兄や姉・乙女と盃を酌み交わしました。1ヵ月半後に暗殺される龍馬が家族と過ごした最後の時となりました。

 昭憲皇太后(明治天皇の皇后)に献上された龍馬の写真。日露戦争開戦前夜、明治37年(1904)2月6日、昭憲皇太后の夢枕に龍馬らしき人物が立って、「誓って皇国の御為に帝国海軍を護り奉る」と奏上し、日本海軍の勝利を約束したということがありました。この話を聞いた皇后宮大夫・香川敬三がこの写真を献上したところ、「夢に現れたのは龍馬に間違いない」と驚かれました。
 龍馬は、この出来事と亀山社中や海援隊を創設したこととが相まって「日本海軍の父」と新聞などに取り上げられ、龍馬ブームが起こりました。
高杉晋作所用鉄扇        高杉晋作 和歌三首
 「鉄扇」は殴打用の武器で、刀剣を持ち込むことが禁じられた場所で護身用として使われました。高杉所用の鉄扇には、自作の漢詩が書かれています。
 高杉晋作は、天保10年(1839)長州藩士の長男として誕生。安政4年(1857)に吉田松陰の松下村塾に入門。文久3年(1863)に奇兵隊を組織し、第2次征長戦では幕府軍を破るなど倒幕に向けて大きな役割を果たしました。慶応2年(1866)の薩長同盟締結にも桂小五郎(木戸孝允)とともに尽力しましたが、翌年4月、病のために死去しました。享年29歳。大政奉還の半年前でした。              

右行から
「偽りの世とは思へと偽りにいつわりそえてはちぬいつわり」
「なに事もみないつわりの世の中にこれはまこととたのむおろかさ」
「かきりなき世のいつわりをいさめんと腹たたしかる老いのおろかさ」
 奇兵隊創設のころの作。春風は高杉の諱。
 武市半平太 自画像(石版)  【初公開】武田耕雲斎 詩書
 
 武市半平太が牢屋の中で鏡を見ながら書いた自画像。元治元年(1864)7月ごろ、姉・奈美と妻・富に宛てた手紙に「自画像を描いたが、ちょっと男前に描きすぎて笑っています」とありますが、この自画像のこと。厳しい獄中生活で頬はこけるほど痩せ、髪は伸び放題の姿ですが、姉や妻に心配をかけまいとした心情がうかがえます。
 武市半平太は土佐勤王党の盟主。土佐の勤王化に尽力し一時は藩主に認められ京都で活躍しますが、前藩主・山内容堂に捕縛され、1年半に及ぶ過酷な取り調べの後、慶応元年(1865)、切腹を命じられました。
行年37歳。自画像は、切腹の1年前に描かれたものです。
 
 水戸藩主・徳川斉昭の信任を得て参政、執権を務めた武田耕雲斎の書。詩は斉昭の作で、国に報いて忠義を尽くしたいという内容。書中の源烈公とは斉昭のこと。
 武田耕雲斎は、斉昭を支えて、尊王攘夷運動を行いますが、万延元年(1860)に斉昭が死去すると、藩内は混乱、耕雲斎は藩政から遠ざけられました。慶応元年(1865)、尊王攘夷を掲げる天狗党の首領に担ぎ上げられ、在京中の斉昭の子息・一橋(徳川)慶喜に嘆願するため約800名の同志とともに上京しようとしますが、途中の金沢藩で幕府軍に敗れ、降伏。斬首されました。行年63歳。明治24年、龍馬、高杉、武市らとともに正四位に叙せられました。
 
 
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