霊山歴史館
トップページへ ご利用案内 霊山歴史観について 展覧会・行事 刊行物・グッズ
 
 
 
  トップページ / 歴史館ニュース / NEWS-2015.4.1-2kimidokoro
      2015年通年特別展「松陰をめぐる人びと」第2期「松陰と安政の大獄」見どころ
        松陰自筆の「冤魂慰草」や楫取素彦詩書、梅田雲浜書状など
 
 2015年通年特別展「松陰をめぐる人びと」は、吉田松陰や家族、松下村塾の弟子たちの資料を展示し、好評をいただいています。
 吉田松陰直筆の詩書や肖像画、初公開の楫取素彦(小田村伊之助)関連の資料、久坂玄瑞、高杉晋作。伊藤博文など松陰の弟子たちの資料などを豊富に展示しています。
 第2期「松陰と安政の大獄」では、これに加え初公開の梅田雲浜肖像画など安政の大獄関連の資料を加え、ますます充実した展示となっています。その見どころの一部を紹介します。この機会にぜひご来館のうえ、ご覧ください。

吉田松陰 冤魂慰草(えんこんいそう)                                     川本文庫蔵 

 安政元年(1854)松陰とともに海外密航を企てた金子重之助は長州藩岩倉獄で過酷な環境の中で獄中死しました。松陰は佐久間象山や久坂玄瑞らに呼びかけて、2年がかりで追悼文と俳句を集め「冤魂慰草」としてまとめました。さらに松陰は、獄中の食料費を節約し、墓碑建立の資金として「金百疋」を遺族におくりました。それは、「墓前石造花筒一対 寄付吉田氏」と刻まれ、現存しています。
 吉田松陰詩書        川本文庫蔵  楫取素彦詩書        霊山歴史館蔵

 吉田松陰直筆のこの詩書は、安政6年(1859)安政の大獄での江戸送致に際し、同志の土屋肅海に送ったもの。「吾志は百世後に聖人に理解されるだろう」とうたっています。松陰は、人生の中で21回命がけで物事に当たるとして「二十一回猛士」や「二十一回生」の号を用いています。
  楫取素彦(小田村伊之助)は、文政12年(1829)生まれで、松陰より1歳年上。松陰が「三たび助けられた」と言うほど信頼されていました。松陰の妹・寿(ひさ)と結婚、2児を設けました。松陰没後、長州藩の要職につき、松陰の志の実現に尽くしました。明治9年(1876)、初代群馬県令(知事)となり、富岡製紙場をつくるなど殖産興業に貢献。明治14年妻・寿が病没し、16年寿の妹・文(美和)と再婚しました。この書は晩年に揮毫を頼まれ書いたもの。
 【初公開】梅田雲浜肖像画   【初公開】梅田雲浜書状     

 梅田雲浜は幕末の尊王攘夷思想の先駆者として、多くの志士に影響を与えました。松陰とは京都で交流があり、安政3年(1856)には雲浜が萩を訪ね、松下村塾を訪問しています。
 雲浜は、安政5年(1858)、幕政批判のかどで大老・井伊直弼の安政の大獄逮捕者第1号となり、厳しい取り調べを受け、翌安政6年9月獄中で死亡、行年45歳でした。肖像画は、雲浜の凛とした意志の強さがよく描かれています。(霊山歴史館蔵)
 

 梅田雲浜が長州藩の中村道太郎(九郎)に宛てた書状。中村は長州四参謀のひとりとして右筆、参政などの要職を歴任。元治元年(1864)の禁門の変に参戦しましたが、敗れて敗走。俗論派が政権を握ると、捕えられて野山獄で斬首されました。
 書状は安政5年(1858)4月15日付で、「尊藩の栄辱は貴兄の行動にかかっています。決然と自らをもって、そのようにご任じなさるべきです」などと書かれています。雲浜が安政の大獄でなくなるおよそ1年半前のものです。
(霊山歴史館蔵)
  桜田御門外水府脱士之輩襲撃図                       霊山歴史館蔵
   安政の大獄の反動として万延元年(安政7年=1860)3月3日、水戸の浪士17人に薩摩浪士を加えた18人が、江戸城桜田門外で登城する大老・井伊直弼を要撃した様子をリアルに描いています。大蘇芳年画。
 これ以降、幕府の権威は大きく失墜、志士の活動が激化していきます。
 ◆上記以外の主な展示資料
・【初公開】杉百合之助(松陰父)書状・【初公開】杉滝(松陰母)書状・【初公開】杉梅太郎(松陰兄)短冊 ・【初公開】楫取素彦(小田村伊之助)書状・久坂玄瑞書状・伊藤博文詩書・【初公開】井上馨書状 ・大村益次郎書状・毛利敬親一行書・井伊直弼和歌短冊・僧月照扁額

 〈坂本龍馬コーナー〉〈新選組コーナー〉にも多くの資料を展示しています。
 
 
このホームページの著作権はすべて霊山歴史館に属します。
Copyright 2011, Ryozen Museum of History, Japan
お問合せ トップ頁へ サイトマップ 関連サイト