霊山歴史館
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      2016年秋の特別展「龍馬~未来への旅立ち」 見どころ
        龍馬暗殺直前の直筆書状や新政府綱領八策、恩師の掛軸など
 
 2016年秋の特別展「龍馬~未来への旅立ち」は、坂本龍馬直筆の書状や龍馬を育てた人びと、龍馬の新政府への思いに関する資料などを多数展示。連日多くの入館者で賑わっています。
 展示資料の見どころの一部を紹介します。ぜひご来館のうえ実物をご覧ください。

 坂本龍馬書状 本山只一郎宛(暗殺1か月半前)     霊山歴史館蔵
 
 慶応3年(1867)9月27日付、土佐藩大目付・本山只一郎宛の書状。直柔(なおなり)は龍馬の諱(実名)。
 龍馬は慶応3年9月15日、ハットマン商会から購入したライフル銃1300挺を震天丸に積み込み、長崎から土佐に向かいました。このころ薩摩藩と長州藩は討幕へ向けて武備を着々と整えていましたが、土佐藩は藩論がまとまらず、兵器の近代化が進んでいませんでした。龍馬は震天丸で運んできたライフル銃1000挺を購入するよう土佐藩に働きかけていました。書状にある「二件の御決裁」とは「薩長両藩と共に倒幕に向かうよう藩論を統一すること」、「ライフル銃を購入すること」だと思われます。
結論はなかなか出ず、この間に龍馬は脱藩以来5年ぶりに実家に帰り、大喜びした兄・権平、姉・乙女と酒を酌み交わしました。龍馬はその1か月半後、近江屋で暗殺され、これが家族とすごした最後の時間となりました。(土佐藩はライフル銃を購入)
 坂本龍馬書状 岡本健三郎宛(暗殺半月前)          足立家蔵
 慶応3年10月24日付、土佐藩下目付・岡本健三郎宛の書状。末尾には「龍」、「梅太郎(龍馬の変名)」と書かれています。
 坂本龍馬は大政奉還後、新政府の財源をどう確保するか頭を悩ませていました。そこで財政に明るい福井藩の三岡三郎(由利公正)に会って指南を受けるとともに、三岡を新政府に呼び寄せようとしていました。
 龍馬は10月24日、古くからの同士だった岡本とともに越前福井藩に旅立ちました。書状は、福井行きと午後4時に出発する旨を岡本に伝えたもの。福井では11月2日に三岡と会い、早朝から深夜まで語り合ったといわれています。龍馬が暗殺されるわずか半月前のことでした。
 勝海舟 錨自画賛        霊山歴史館蔵 佐久間象山 省 (写本)     
   坂本龍馬は、文久2年(1862)3月、土佐藩を脱藩 、同年秋ごろ江戸で勝海舟を訪問し、弟子となりました。
 勝は龍馬に、外国の侵攻から日本を守るためには海軍の強化が必要などの知識を授けるとともに多くの有識者を紹介しました。
 自画賛は「かけとめん ちひきのいかり つなをなみ ただようふねの 行えしらずも 海舟識」とあり、徳川幕府の衰退ぶりを、行く先も分からずに漂流する船に例えています。幕臣である海舟がうたっているところが興味深い。
  佐久間象山は信州松代藩士。西洋兵学、海防、砲術に優れ、嘉永4年(1851)江戸で私塾を開設、砲術や兵学を教えました。吉田松陰、勝海舟らもこの塾で学びました。龍馬は嘉永6年(1853)剣術修行のため江戸にのぼり、北辰一刀流の千葉道場に入門しましたが、佐久間象山の塾にも入り、兵学や世界情勢について学びました。
 「省諐録(せいけんろく)」は安政元年(1854)に象山が著したもの。日本が近代化するためには、まず西洋諸国の情報を集め、各国の長所をもって国家をおこし、西洋の語学を修め、人材を西洋に派遣して学ばせることが必要とし、「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」、つまり和魂洋才の思想を提唱しました。
 象山は、京都で開国佐幕、公武合体の策士として活躍中、元治元年(1864)尊王攘夷派で肥後の河上彦斎に暗殺されました。享年54歳。
 坂本龍馬筆 新政府綱領八策 (複製)                   
 
 坂本龍馬が慶応3年11月に著したもの。暗殺される直前まで龍馬は、新政府のあり方について多くの人々と議論し、策を練っていました。「第一義 天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問二供フ」に始まり、「第五義 上下議政所」「第六議 海陸軍局」など新政府の構想を記しています。原本は国立国会図書館憲政資料室蔵。 
 
 
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