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      2017年夏の特別展  「新選組、義に生きる!!」見どころ
        近藤勇 詩書屏風、池田屋事件感状など新選組の貴重な資料
 
 2017年夏の特別展「新選組、義に生きる!!」」は、近藤勇、土方歳三、沖田総司などの貴重な史料が盛りだくさん。連日多くの来館者で賑わっています。
 文久3年(1863)2月、幕府は上洛する将軍・徳川家茂の警護のため「幕府浪士組」を結成。近藤、土方らもこれに加わりました。その後近藤を局長とする「壬生浪士組」をへて、同年8月「新選組」の名を賜り、京都守護職・会津藩御預かりとして京都の市中警護に当たります。池田屋事件、禁門の変などで活躍しましたが、慶応4年(1868)1月に始まった鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸に敗走。近藤は4月に処刑され、土方らは東北から箱館まで旧幕府軍とともに転戦、明治2年(1869)5月、土方が新政府軍の銃弾で斃れるまで戦いぬきました。最後まで義に生きた一生でした。
 展覧会では、近藤勇 詩書屏風、池田屋事件感状はじめ、新選組を多方面から知ることができる資料を多く展示しています。土方歳三の所用刀「大和守秀國」と近藤勇所用刀「阿州吉川六郎源祐芳」も展示しています。
 この機会にぜひご来館ください。

  近藤勇 詩書屏風                京都・個人蔵  

 文久3年(1863)2月、幕府浪士組の一員として上洛した近藤勇は、清河八郎らが江戸に戻ったのちも京都に残り、壬生浪士組を結成しました。しかし、活動資金が足りずに困り果て、京都のとある庄屋の家を金策に訪れました。快く資金を提供してもらえたことに喜んだ近藤が、襖の裏に漢詩を揮毫し、お礼として庄屋に与えたのが、この屏風の書です。
 当時は天誅事件が横行しており、この庄屋も近藤に金を貸したことを知られることを恐れて、「江都撃剣匠 近藤勇」との署名を切り取りました。しかしながら、署名部分が切り取られたことによって現存することになった貴重な史料といえるものです。
 左面の詩には「攘夷」の文字が書かれています。新選組や近藤は、攘夷派志士と敵対しましたが、近藤も攘夷思想を持っていたことがわかります。
大意)丈夫たるもの志を立てて関東を出たからには自分の宿願が成就しないうちは再び郷里に帰ることはない。三尺の剣を十年間磨いて、いつでもお役に立てるように私の腰にある。私は恩に報い義を守る天皇の士であり、志を伝えるために洛陽(京都)に入った。昼夜の兵談何事をなさん。攘夷、誰とはからん、布衣の郎(無冠の庶民)。
 池田屋事件感状        禁門の変感状


 幕府から新選組に与えられた池田屋事件の感謝状。文面に「松平肥後守御預り 新選組 去六月六日之働 上様二も御満悦二被思召候」と記されています。この報奨金として会津藩が幕府から預かっていた浪士金より500両、幕府から600両の計1100両(約3300万円)が新選組に下賜されました。
(霊山歴史館蔵、上写真は部分)
  元治元年(1864)7月の禁門の変で、幕府から京都守護職の松平容保及び新選組あての感謝状。文面に「先般長州人入京及乱妨候節之働 上様二も神妙二被思召候二付」とあります。
(霊山歴史館蔵、上写真は部分)
 山岡鉄舟 自画賛  勝海舟 画賛 山岡鉄舟像    

 山岡鉄舟は天保7年(1836)江戸に生まれ、のちに山岡家の婿養子となりました。剣は北辰一刀流の千葉周作に学び、後年に無刀流を創始しました。
 文久3年(1863)、幕府が浪士組を集めると、浪士取締役を命じられ、京都まで同行しました。幕府崩壊後は徳川家の救済と江戸城無血開城、彰義隊の解散慰撫に尽力しました。維新後は茨城県参事等を歴任し、明治天皇の侍従に任命されました。明治21年(1888)病没。行年53歳。
 書画にも優れ、一楽斎と号しました。この自画賛は、蒸気船の絵に、「乗長風破万里波」と賛を入れています。(霊山歴史館蔵)
勝海舟が、亡くなる直前の山岡鉄舟に贈った掛軸。「才能豊かな豪傑で、剣に優れている。行動や言葉に真理があり、八万人の弟子に彼を上回る者はいない」と鉄舟を絶賛しています。
 あまり人を褒めない海舟が残した貴重な史料です。

 文面は
「英邁豪果 一好男子 撃剣精妙 悟入衆理 八萬子弟 誰亦是比」。
(霊山歴史館蔵)
  皇国一新見聞誌 凾館の戦争            霊山歴史館蔵
  慶応4年(明治元年、1868)1月に勃発した鳥羽伏見の戦いから始まる「戊辰戦争」で、多くの新選組隊士が亡くなり、また離隊しました。局長の近藤勇も4月に東京・板橋で処刑され、沖田総司が病死するなど大きな打撃を受けた新選組ですが、副長・土方歳三は残り少ない隊士とともに、元幕臣の榎本武揚らと合流して蝦夷地(北海道)に渡りました。
 蝦夷に入った一行は五稜郭に拠点を置き、蝦夷唯一の藩である松前藩を攻略して箱館政府(蝦夷共和国)を樹立しました。土方は陸軍の責任者である陸軍奉行並に選ばれ、各地の戦闘で活躍しました。明治2年3月25日の宮古湾での戦いでは、新政府の軍艦「甲鉄」の奪取作戦を決行しましたが、箱館政府の軍艦「回天」から甲鉄へうまく乗り移れず敗走しました。
 土方は死期が近いと悟ったのか、土方付きの新選組隊士・市村鉄之助に、故郷に自身の写真と愛刀を届けるように命じました。それから約一ヵ月後の明治2年5月11日、弁天台場で籠城中の新選組隊士を救わんと出陣した土方は銃弾に斃れ、35年の生涯を閉じました。土方死去の一週間後、新政府軍は箱館を攻略、戊辰戦争は終結しました。
 この錦絵は、明治9年に大蘇芳年(月岡芳年)が描いた「皇国一新見聞誌 凾館戦争」。箱館湾での海戦を描いたもの。
 
 
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